佐々木隆生(経済学研究科教授)


1990年代半ばから謳われはじめた「グローバル化」は、経済的には「自由放任」のイデオロギーと密接に結合している。政府がいろいろと試みても「市場の判断」に反するときには失敗する、というわけである。構造改革や規制緩和も同じように「自由放任」への信奉から支持されることが多い。
19世紀の「自由放任」の時代に、ヨーロッパの主な国々の政府の規模はGDPの10%以下でしかなかった。政府は、国内では暴力と不法行為から市民を守る役割だけを果たしいればいいと言われていた時代であった。第2次大戦後の50年代にそれは25%から30%くらいに跳ね上がった。政府の比重の小さかったアメリカ合衆国でも20%を超えた。ケインズ主義の到来である。では、今は?
「政府が大きすぎる」という声が政治の表舞台に登場した1980年にアメリカ合衆国の連邦・州政府の支出はGDPの30%程度であった。ところが「小さな政府」をかかげたレーガン時代を経て、しかも政府支出がクリントン時代に相対的に抑制されたにもかかわらず今でも30%を越えている。ヨーロッパでは40%を越えるのは当たり前になっている。
しみると、「小さな政府」への回帰は生まれなかったと言っていい。起きたことは、政府干渉の増大の抑制と、時代遅れになった規制や干渉を新しいものに取り替えること、そして、時には、「金持ち」に対する税率の軽減であった。政府の規模は変わらないままに、どこから税をとり、どこに支出するのかが問題となってきたのである。これを「自由放任か大きな政府か」という選択問題にしてしまうのは問題のすり替えになることははっきりしているであろう。

眞柄 泰基 (北海道大学創成科学研究機構 特任教授)


世界には、生活環境が劣悪でコレラ等の重篤な感染症に悩まされている人々がおり、毎年2百万人にもの子供たち死んでいる。また、ヒ素やフッ素に汚染された水しかないため、労働可能な年齢に達する頃に廃失している人も多い。このような人間の尊厳を失うようなことがないような生活環境にするためには50兆ドルが必要であるとされている。

憲法25条では、国は公衆衛生の維持に努めなければならないとされ、そのために水道施設や廃棄物処理施設が整備され、実質的に消化器系の感染症の脅威から解放された。しかし、これらの施設には1970年代以前に整備され施設更新を実施しなければならないものや、さらに、そのような施設が続々と発生する。水道サービスは独立採算性とするのが国際的標準である。しかし、わが国では地方自治体が水道事業を展開しているため、水道料金設定に地方政治が介入し、料金がコストを下回っていることが多い。

水道は、感染症対策としてその役割を果たしてきているが、生活用水ばかりでなく社会経済活動に必要な水を提供しており、その持続性は社会経済活動の持続性をも律しており、社会基盤施設としての役割をも果たしている。施設更新のためには年間数千億円が必要であると試算されているが、それを国庫補助や公的債に期待できない。とすれば、民間資金の調達が必然となる。

民間資金調達ということになれば、地域独占事業であっても、民間企業の事業参入や関与等によるリスク管理が求められるべきである。しかし、地方自治体が行っている社会基盤施設にかかる事業への民間関与についてのビジネスモデルの範例は、公・民いずれにも無い。まさに、その範例を構築していくことがこれからの公共政策研究に求められているのであり、文・理融合のプラットホームで始まるのである。

佐々木隆生(北海道大学大学院経済学研究科教授)


湾岸戦争の頃、プリンストン大学の国際研究センターにいたが、研究室はウッドロー・ウイルソン公共国際大学院にあって、そこの研究者や職員、学生といろんな交流をもった。ウッドロー・ウイルソン・スクールは65名くらいの修士コースをもっていたが、35名くらいの教授を含めて60名くらいの教員が教えていた。教員のほとんどは政治学と経済学で、人口学や地理学、そして社会学などの専門家が少々。国際機関や政府機関をはじめ多くの公共的団体、NPOで働く人々も多くは経済学の博士号をもっていた。つまり、公共政策や国際政策の教育は、法律を中心とする日本の教育とはまるで違ったものだった。だから、日本の各官庁は法律職で採用になった多くのキャリア官僚を欧米の大学院に送り、経済学や政治学を勉強させていて、「これって、変だよなあ」と仲間の研究者や当の官僚と話し合ったものだった。東京大学法学部での法律の勉学が国家を支えていた時代はもう過去のものになっていたからである。だから、北大の公共政策大学院の誕生は、私にとっては、待ちに待った本格的な公共政策教育の開始を意味する。それはスタッフの構成を見れば一目瞭然である。それどころか、「文理融合」の点で北大の公共政策大学院は欧米の公共政策大学院の先を行っている。教える教員は熱気をもっている。やがてウッドロー・ウイルソン・スクールやハーヴァードのケネディ・スクールのような日本を代表する公共政策大学院になると信じている。 

山口 二郎(北海道大学大学院法学研究科教授)


過日、東京のバーで、ある中央省庁の幹部となった友人Aと、別の政治学者の友人Bの3人で、酒を飲みながら話したこと。

私: 来年春から、私の大学でも公共政策大学院なるものを始めることになったのだけど、未知の大海に船を出すという心境だなあ。理念はいろいろ打ち上げたけど、それを具現化するとなると、苦労も多いよ。

B: どこも大変ですな。ロースクールが始まってからというもの、政治学者はみんな存在理由を弁証することに躍起だね。そもそも政治学なんて、実学にはなり得ないのは明白なんだけどね。こういうときには、あえて動かないという見識が大事なんだよ。

A: 確かに、大学の改革なるものが、大きな目的を見失って、世間に迎合しているという雰囲気はあるね。我々のような一線で仕事をしている実務家が大学に期待しているものと、今の大学人が「実用的、実践的」と思っているものとの間には、大きなギャップがあるように思えるよ。試験というものは合格しなければ始まらないけれど、大学は試験の予備校ではないでしょう。そういえば以前、新聞社の友人から、マスコミ予備校でハウトゥーを習得した学生ほど面白くない者はないと聞いたことがあるよ。君たちも気をつけた方がいいね。

私: 君のようなエリート官僚でも、審議会に出席する族学者(注:特定の官庁と密接な関係を持ち、その役所の政策を箔づけすることに熱心な学者のこと)の養成以外に、大学に期待することがあるのかい。

A: 僕だって学問に対する敬意は今でも持っているさ。大学と官庁や会社にはそもそも違った役割がある。大学では、大学でしかできないことを、学生には学生時代にしかできないことをやって欲しいと思っているだけだよ。言ってみれば、知的なインフラを作ることこそ、今も昔も大学教育の使命だと思うよ。

B: 今年の僕のゼミでは、アダム・スミスの『道徳感情論』を読んでいる。アダム・スミスといえば、知らない人はいないだろうが、実際に読んだことのある人はあまりいないだろう。実際この本はすごく面白い。ゼミでスミスを読んだと言えば、就職活動の時にも自慢できるだろう。政治学は「無用の用」だと開き直らなくては。

A: 古典を読むばかりで現実に目を向けないのも困るけど、現実に目を奪われるだけで思想を知らないというのも困るね。官界、経済界を問わず、日本のエリートに欠けていたのはそうした思想的背骨ではなかったのだろうか。特に、外国のカウンターパートと話をしていると、そうした知的蓄積をいやというほど感じさせられるよ。結局交渉力というものは、そうした知的な総合力のことだというのが、僕の経験だね。日本の場合、政治家も官僚ももっとレベルアップしないと。

私: A君にそういわれると、何やら希望が湧いてくるね。現実政治を分析している僕としては、無用の用と開き直ることはできない。ただ、規範的なモデルを提示して、現状を批判するということは、大学でしかできないことだという自負はあるよ。そういえば十年ほど前に、当時の通産省の研究機関で話をしたとき、経済史の大家、大塚久雄先生の息子さんという通産官僚から、「日本の行政のどこがすぐれているかは自分たちがよく知っている。学者の仕事は日本の行政のどこに問題があるかを解明することだ」と言われて、感心したことがあるよ。どういう分野の仕事についても、その人の思考の座標軸となるような知的インフラを作ることが、いつの時代にも大学の使命だと思う。今は、インフラの中身が少し広がったのだろうけれど。おたおたせずに勉強するしかないね。

A: 学問や知に対する敬意を失わない、新しい専門職大学院ができることを期待しているよ。どんな人材が生まれるのか、楽しみにしているよ。

三酔人の問答は延々と続いた。


加賀屋誠一 (北海道大学大学院工学研究科教授)
今から30年近く前になるが、短い期間の役人生活から学究の道へ人生の軌道を変えた。そのとき遭遇したのは、2つの新鮮な、しかもユニークなものの見方、考え方であった。1つは、ロトフィー・A・ザデーによって構築されたファジィ理論、もう1つはジェイ・W・フォレスターが開発したシステムダイナミクスである。
折しも、技術優先による社会基盤整備が進む一方、環境保全、市民の社会参加が萌芽しつつあった時代でもあった。技術的最適解を志向していた技術屋の私も、パラダイムシフトを経験し、ホロニックなシステム志向、複雑系社会への対応とその視点を拡げることに努めた。そして複雑なフィードバックを取り込んだ社会システムを再現する方法としてのシステムダイナミクス、および人間の思考を直接的に表現できる、すなわち言語変数による思考の表現方法を容易にするファジィ理論は、複雑系社会での問題解決に取組むための重要な支援方法となったのである。それと同時に、それら新しいシステム技術が、社会システムに関わる諸問題を解きほぐすことに寄与すると確信したのである。
これは私の文理融合の重要さを理解した最初である。その後、技術的最適解と社会的最適解の揺らぎの中で均衡解を求めるタスクは続いている。今回また新たな文理融合のあり方について、考える機会を与えられることになった。私の問題意識は、持続的成長下の社会システムをいかに構築するか、その中で真のヒューマンスケールをどう捉え、都市・地域づくりのための政策工学の形成に生かすかという点にある。そして公共政策大学院の中で、市民参加を包含した社会システム構築のプロセスについて、21世紀の世界を拓く皆さんと一緒に論議していくことができればと考えている。 


飯田  亮 (セコム株式会社創業者・取締役最高顧問)

経営とは、「潮の変わり目を捉え、そして機を逸することなく即座に行動すること」である。経済社会環境が大きく変動する中、行政や地域そして政策を考える際にも「経営」の概念が不可欠となっている。これまでの日本では、官民を問わず将来のビジョンを考えるにあたり、自らの内部にあるリソースを中心に発想し行動してきた。しかし、デジタル革命・IT時代を迎え、地域の将来を考える場合、今まで利用してこなかった新たな、あるいは外部のリソースとの連携が不可欠となってきており、公共性のあるサービスにおいても民のリソースを活用することでより良質のサービスを追い求めていく時代となっている。

現在では組織の官・民、または地域を問わず「他と違う価値あるものを創造すること」が必要となっており、そのためには、現状に甘えることなく打破していくエネルギーが必要であり、常に革新できる緊張感と集中力をもった組織や地域であることが前提となる。組織や地域を異文化と結びつけ、異なったリソースと連携させることにより、「よいストレスを生み出す効果」を与え、社会全体から見ても魅力的な存在となることができるのである。

いつも前向きで晴れ晴れとした魅力ある組織や地域を形成する、そのためには「凛」としたデザインを描ける、厳しくもロマンチシズムを持った人材が今求められている。北海道というまさに厳しくもロマンチシズムを持った地の公共政策大学院を通じて、所属や年齢を問わず、多くの方々に創業者としてのロマン、そして自ら決断しリスクを引き受けるリーダーシップの本質を伝え、地域の新たなステージへの役割を少しでも果たせればと思っている。


石弘之(朝日新聞記者、東京大学大学院教授などを経て、前ザンビア大使)

日本にきた外国人がよく驚くのが、ゴミの分別である。収集日にずらりと並べられたケースに、一般の市民がほとんど間違いなく捨てていく。米国からの 私の友人は「世界の奇跡」と絶賛していた。欧米でも数種の分別はあるが、熊本県水俣市の21分別はおそらく「世界記録」であろう。北海道でも富良野市の 14分別といった先進市もある。

「日本は世界のリサイクル最先進国」というと、「ちょっと待て」という声が聞こえてきそうだが、各国を回って環境の調査 をしていると、これだけゴミ問題に熱心な国はあまりない。先進国として引き合いに出されるドイツと比べても、リサイクル率は日本の方が高いものが多い。北 欧諸国も進んでいるが、スウェーデンの880万人を除けばほとんど500万人前後以下の人口しかなく、日本と比較するのはむずかしい。

本格的な「循環社会」に向かって、「循環型社会形成推進基本法」が完全施行されて4年。家電リサイクル法など7つの法律 が始動した。リサイクル率はどれも上昇をつづけている。たとえば、古紙はほぼ60%で世界1位。スチール缶は僅差で2位、アルミ缶は北欧勢やスイスについ で5位だが、すでに83%を超えている。他の自動車や家電にしても急速に率を上げている。

「大量消費」を放っておいてリサイクルに力をいれるのは本末転倒、という批判には耳を傾ける必要はある。しかし、21世 紀の人類最大の難問はエネルギーとゴミであり、リサイクルはその必要な第一歩であろう。この資源のない過密な日本は「循環国家」として生き残るしか道はな い。あらたなスタートを切る公共政策大学院は、関連の分野が協力して、日本の生きる道を市民とともに探る拠点になると信じている。

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