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2017年度(2018年春季)HOPS国際フェロー

「コミュニティ・ディベロップメント・プログラム」
[1]バルカン現地調査コース

  • 北海道大学公共政策大学院では,グローバル化時代にふさわしい人材を育成すべく,海外における教育やキャリア形成の機会づくりを奨励しています。その一貫として,マケドニア共和国の大学「ユーロカレッジ」を受入先として研修プログラムを実施します。派遣される学生は「HOPS国際フェロー」として,派遣に際して奨学金が付与されます。参加希望者は下記にしたがって応募して下さい。

派遣時期:2018年2月上旬~2月下旬の間の約2週間
場所:マケドニア共和国(スコピエ市およびその周辺)
募集定員:コミュニティ・デベロップメント・プログラムで3名程度(1人当り20万を上限として奨学金を付与/昨年例)
説明会:2017年10月12日(木)18:30よりW101教室にて。案内チラシはこちら

 

  • コース・プログラム内容:
  • 1)  対立的多民族共存環境,独立後の国家建設,生活環境,将来の希望等についてのヒアリング,マケドニア当局との情報・意見交換,各種の文化行事等への参加等
  • 2)  各国際機関・日本大使館への表敬訪問,意見交換など
  • 3)  実施関係者との協力事業,交流事業など
  • ※プログラムは参加者が主体的に構成し,ユーロカレッジ現地スタッフ,HOPS担当教員と協議して決定する。
  • ※治安状況は平穏ですが海外旅行傷害保険に各自入られることを推奨します。
  • ※前年度の参加者による報告会(10月12日(木)18:30にW101にて開催予定)があるので,参考にすること。

備考:

  • プログラムの詳細は、こちらの募集要項をご覧ください。
  • 応募用紙はこちら
  • 手続き上の不明な点は、法学研究科・法学部教務担当にお問い合わせ下さい。
  • (TEL:011-706-3120、kyomu$juris.hokudai.ac.jp)
  • プログラム上の不明点は,齋藤久光(saitoh$econ.hokudai.ac.jp 公共政策大学院准教授)に問い合わせて下さい。
  • ※アドレスの$を@に置き換えて下さい。

 バルカンプログラム体験談

短かったようで長かった2週間 王 野(2013年度体験談)

2014/2
短かったようで長かった2週間、バルカン半島プログラムから戻ってきてもう半年余りです。しかし今でも関連のテーマを調べ、ペーパーにするところです。私は最初、多民族共存、難民処置、子供教育、この三つの視点から、バルカン半島に入りました。ビザの原因でクロアチア、アルバニア、コソボなどの周辺地域に行けず、主にマケドニア共和国で調査を行いました。

 
首都のスコピエでロマ人集住地区に行きました。サポーターのマケドニア人Bobanさんは普段ロマ人以外誰も近づかないと言い、住宅部に入らないようにアドバイスしてくれました。外から見ると、ぼろぼろの土壁の周辺にゴミの山があります。住宅よりスラムで表現したほうが適切だと思います。マケドニアには53879人のロマ人がいます(2013)。その半分近くは首都のスラムに集中しています。ヨーロッパにおける1000万―1200万人と推定されるヨーロッパ社会最大の少数民族、ロマ民族の社会的、経済的現状を改善するという名目で「ロマ統合の10年」に世界銀行、国連開発計画など多額の資金を提供しています。
 
しかし、マケドニアのようにロマ人の現状は依然として劣悪です。そして住宅だけではなく、ロマ人は就職差別、分離教育など様々の面で差別化されています。マケドニアには、マケドニア人、アルバニア人、トルコ人、ロマ人、セルビア人が暮らしています。2001年にできたOhrid Framework Agreementはアルバニア人の権利を確保したが、他の少数民族に対する差別は相変わらず続行しています。政府政策に対して、たくさんのNGO、NPOが動いています。例えば現地のRoma Minority NGOでロマ人の人権問題、子供教育支援、女性権利、住宅改善などなどのプログラムを伺いました。そして、TetovoのNPO、CDI(Community development Institution )で地域経済連携やロマ人就職率改善なども勉強しました。
 
このようなテーマごとにたくさんの政府機関、NPO、NGO、国際組織に訪れました。このプログラムは基本的にオーダーメードで、自分の行きたいところ、調べたいテーマ、勉強したい知識を思う存分にできます。今年マケドニア以外にジュネーブにも行きました、国際機関の日本代表と会い、現場の仕事を教えてもらいました。そして、元国際機関の人事部長や、国際組織で働いていた主力の授業を受け、国際舞台で勤務する仕組みやキャリアアップを把握しました。
 
今年のバルカン半島プログラムは私にとって、非常に意味深かったです。以前私は国際組織で働きたくて留学、そして国際政策専門を選びました。しかし、現地に行き、たくさんのベテランの話を伺い、どんな仕事でも国際に貢献できることを初めて認識しました。むしろ会社で、もっと高質な製品を送り出し、市場開拓に伴う現地職場を増加させるなどは現実的に現地の発展に繋いでいるではないかとシミジミ感じました。
この場で派遣のチャンスをくれた吉田先生、小浜先生、現地でサポーターしてくれたBobanさん、Dejanさん、ホームステイでお世話になった森川さん、Alexsandraさん、Kritinaさんそ
して現地の先生たち、各組織で協力してくれたスタッフたちに感謝したいと思います。国際組織、難民問題、宗教問題、多民族問題に興味のある方々、是非このチャンスを逃さないでください!
 

2012年体験談 大野 晴香(2012年度体験談)

2013/2
今年度のバルカンプログラムにおいて、私たちは2013年2月12日から18日までをマケドニア及びコソヴォで、19日から22日までをスイスのジュネーヴで活動させていただきました。マケドニア及びにコソヴォにおいては主に紛争研究に関するヒアリングや現地視察を、ジュネーヴにおいては国際機関を訪問させていただくことができました。

 
私はもとより紛争解決、特に民族紛争の解決に興味があり、紛争後の平和構築の一環として民族融和政策を研究したいと考えていました。ご存じの方も多いと思いますがバルカン半島の大部分はかつてユーゴスラヴィアという多民族国家で、多くの民族を擁していました。しかし冷戦後に勃発した民族紛争において多くの人々が「民族」や「宗教」など様々な理由によって分裂し、争い、現在のように多くの国に分かれて独立しました。私はこのような歴史・背景を持つバルカン地域に以前から興味を持っていましたので、今回このプログラムに参加を希望しました。
 
最初に訪れたのはマケドニアのスコピエでした。マケドニアはマケドニア人、アルバニア人、そして少数のロマが存在する多民族国家です。私たちは就職支援を行う政府機関や人権NGO、現地UNHCR、現地の大学や赤十字を訪問させていただき、そこで職員の方々にマケドニアにおける民族問題や民族融和政策についてヒアリングを行いました。ここで分かったことは依然マケドニアにおいて民族・難民問題は国家規模の問題であり、人々は大きな関心を持ち、民族融和に向けて努力しているということでした。

 
また、マケドニアでの研修の最終日に私たちは隣国のコソヴォを訪れることができました。コソヴォは2008年に独立したばかりの国で、さらに紛争時においては民族浄化が激しく行われた場所です。私たちが訪れた日は独立記念日の前日で、街中でコソヴォ国旗を見ることができました。私たちはロマの難民キャンプやMitrovicaというセルビア人とアルバニア人が分かれて住む街を訪れました。街はセルビア人地区とアルバニア人地区で大きく明確に分かれており、私は民族融和の難しさを体感しました。
 
その後私たちはジュネーヴに移動し、小島晶子元OECD人事部長、日本政府代表部及びUNHCR、WHO、UNDP、ILOを訪問し、現地職員の方から国連の職務内容や国連で働くということについてお話をお聞きしました。マケドニアでは現場の様子を見聞きすることが多かったのですが、ジュネーヴでは国連という組織がどのようにして現場に関わるか、また国連で働く方法は、といった組織論についてお伺いする機会が多かったです。
 
 
今回のバルカンプログラムは平和構築の現場で働きたいと漠然と考えていた私に大きな影響を与えてくれました。現場が直面している問題とは何なのか、それにどのように立ち向かっているのか、また平和構築の現場にアプローチする様々な働き方について深く考えることができるようになりました。
 
この場を借りて、今回このプログラムに派遣してくださった小浜先生・吉田先生、またマケドニアとスイスにおいて、私たちを大きくサポートしてくださった松元さんをはじめとするJARCの皆様に深くお礼を申し上げたいと思います。

2011年体験談 千葉 幹(2011年度体験談)

2012/2
 
今回、マケドニアを中心に2012年2月7日から20日まで、約2週間滞在する機会を得ました。民族問題など複雑な政治事情を持つ国というイメージが強かったのですが、理系の立場から見てみたいという思いと東欧に対する好奇心とが相まって応募に至りました。結果からみれば、この地域の歴史や文化に強い印象を受け、またとない体験が出来たと感じています。
 
私は土砂災害防止対策手法、特にソフト対策といわれる土地利用規制や避難、防災計画といった分野に関する仕事に携わっています。このため、日本とは異なる歴史的背景や経済状況、地理的位置を有するマケドニアにおいてどういった防災対策が実施されているのかという点に関心を持っていました。まず気づいたのは、首都中心部で建築ラッシュが見られる一方、河川沿いのコンクリート構造物は古く維持管理が十分でないと思われた点や、幹線道路沿いの防災対策はとても簡素なものだという点です。また森林伐採を制限する法律はあるものの、経済的誘因に押されて森林の保全が進まず、森林火災や土壌流出を助長するというお話も伺えました。経済成長の可能性を目の前にして、いつ起こるかも分からない防災対策を実施することの難しさを感じました。
 
またこの時ヨーロッパでは、記録的寒波に見舞われ、マケドニアにおいても交通網の寸断や電気の供給量が少なくなる事態が発生しました。このためあちこち移動することは難しかったのですが、雪害発生時の状況を観察する貴重な機会を得、さらにマケドニアや隣国ブルガリアの世界遺産や博物館など訪れることができました。博物館は平日昼間、しかも寒波中ということもあってか訪れる人は少ないようで、私一人のために灯りや暖房をつけてもらうことも多く、つきっきりで説明してくれる場合もありました。一方で閉館前に戸締りを開始したり、誘導路が分かりにくかったり、説明文で英文が併記しているものがとても少ないなど、積極的に来客数を増やすという意思はそれほど強くないのかなと感じる面もありました。現在の面積からみれば小さな国ですが、フレスコ画や建築様式などから古くから続く文化や国内の各地で多様な様相をみせる民族衣装に驚きましたし、また独立運動で活躍した方への敬意が未だ深いことなどからこの国の歴史が伺えました。
 
自然災害を対象とした防災対策は、ともすれば自然現象だけを見たり、逆に人間の都合だけを考えて計画を立てる場合があります。しかし今回は、マケドニアの方々が築いてきた歴史や文化に思いを巡らせることができ、自然現象に加えて人間の生活も併せみるなかで最適解を出すにはどうすればよいのかという新しい課題を得ました。この観点は、他国への支援の一環として、また国内各地で発生する災害対策を考えるにあたって、重要な意味を持つと感じています。
 
最後に、現地でお世話になったNPO法人日本救援行動センターのみなさんや、お話しを伺わせて頂いたSs.Cyril and Methodius大学や地震研究所(IZIIS)、危機管理センター(CMC)のみなさん、並びに興味深い講義を通じて国際政治経済の奥深さ、おもしろさを教えて下さった鈴木一人先生には深く感謝いたします。

2010年体験談 井上 裕之進(2010年度体験談)

2011/2
 
旧ユーゴスラビアから独立し、今ではヨーロッパ連合への加盟を見据えているマケドニアが今回の筆者の研修地となった。2月6日に出発しウィーン経由で深夜に首都スコピエに入り、実質的には7日から18日までマケドニアに滞在した。
 
マケドニアは紀元前ではローマ帝国の一部であり、後に東ローマ帝国やブルガリア帝国、セルビア王国の一部となり、14世紀からはオスマン帝国の支配下となった。その後も紆余曲折があり、最終的に「マケドニア」という一つの国としてある程度の体裁を整えるまでには、1940年代半ばまで待たねばならなかった。
 
このような複雑な歴史的経緯を受けて、当然だがマケドニアは民族・宗教的に非常に複雑な様相を呈している。筆者の関心は、旧社会主義国でもあるマケドニアが今後どのように経済発展を成し遂げようとしているのかという点であった。
 
この問題関心については、プログラムの性質上どうしても話を聞ける対象は限定されていたことは否めない。しかし話を総合すると、一つは観光、一つは農業(とりわけワイン)に注力していることが窺えた。
 
観光については、南にオフリッドという都市があり、UNESCOによって世界遺産として登録されている。オフリッドはオフリッド湖(面積:約350km2、イメージとしては琵琶湖の半分ほど)に面しているが、この湖は透明度が非常に高く、現地の人の話では25m下の底が見られるそうだ。都市自体も町並みが美しく周辺各国から多くの観光客が訪れている。近くのストゥルーガという都市の四つ星ホテル(※格付けは日本と同質と考えるべきではない)の方と話す機会があったが、正規料金で一人一泊40~50ユーロほどで滞在可能である。ツアーを利用すればかなり安価で風光明媚な地区でのバカンスを楽しめる。ホテルも旅行代理会社と提携しバルカン諸国のみならずイスラエルやノルウェイ、オランダ、トルコ等からも観光客を招いているそうだ。
 
一方で、首都スコピエについては、地域住民は伝統に誇りを抱いているものの、旅客の多くはビジネス目的の来訪である。筆者も街中を歩いたが、厳しく言えばやはり一般的な観光に向いている都市とは思えなかった。しかし総じて、観光は大きく成長している分野であると言える。
 
農業については、マケドニアはワインを各国に輸出している。ある大学教授は外国からの農業への投資が進展することを期待していると話した。土地等のポテンシャルはかなり十分にあるとのことだった。筆者の考えでは、ワインは競争が極めて激しい分野であるため、ブランド確立のためのマーケティングが今後重要であると思われた。
 
外国投資の話が出たが、マケドニアは積極的に外国からの投資を受け入れている。そのために法人税や所得税の税率は一律10%と極めて低い。実際に、スコピエの空港に降りたった筆者の目に真っ先に入ってきた看板は「Invest in Macedonia」というものだった。
 
外国投資に積極的である理由は、まず高い失業率が上げられる。マケドニアの失業率は33%(IMF、2009年)である。上に紹介したストゥルーガの市役所の方と話す機会があったが、渡された資料には投資家を呼び込むプロジェクトについての記載もあり、「予期される結果」の一つに「新規雇用」があげられており「対象集団」には「失業者」が含まれていた。また、旧社会主義国であったことから資本主義経済に必ずしもなじまない労働者を、外国企業誘致を通じて訓練する意図もあるようだ。
 
このようなビジネス訓練は、教育分野ではかなり進展しているようだ。クマノボという都市にホームステイすることがあったが、そこの大学は経営学(学士)に特化した私立大学であった。会計やファイナンス、マーケティング等の近代的なビジネス知識を有した学生への需要は高く、就職率はかなり良いとのことだ。
 
ストゥルーガの資料にはリスク要素として「土地が現在も中央政府の所有であること」があげられている。また高い失業率や民族問題を考慮すると、ビジネス上のリスクは低いわけではないだろう。実際に、筆者の滞在中にもマケドニア系とアルバニア系の住民との間での騒動が起きていた。クマノボのホームステイ先にはマケドニア系の大学生がいたが、アルバニア系については「I don’t like them」と述べた。また、新病棟はアルバニア系により運営されているため「余程の緊急事態でなければ使いたくない」と言う。大学生自身の他の言動は如何にも若者らしいものだが、ふとした時にも民族間にくすぶる対立が窺えた。
 
政府についてもやや問題があり、ある方の話では独裁的な側面が強いという。政府に批判的な人気番組の制作会社の銀行口座を凍結する等、過激な手段を用いることもあるそうだ。政府CMを特定のテレビ局に依頼し「宣伝費」を支払うこと等を通じ、マスコミへの強い影響力を保持しているとのことだ。
 
このように、必ずしも順調とは言い切れない経済状況、そして政治環境を受けてのことだろうが、卒業間近の高校生を調査した結果、「機会があればこの国を脱出したい」と考えている学生の割合は約60%だったそうだ。出稼ぎとして外国で働く人も少なくない。世界的な経済停滞に至るまでは4%前後の成長率を達成し、表面的には順調に発展をしているように見えるマケドニアであるが、先行きが全て明るいわけではないとよく分かった。
 
最後に、全く違う経済段階の国を訪れたのは大変有益な機会だった。このプログラムに関してお世話になった北海道大学の吉田先生・鈴木先生、そしてマケドニアでアレンジに協力して下さった方々には、心より感謝を申し上げたい。
 
述べたりない点もあるが、紙幅の都合もありここで筆を折る。(2011年3月14日)

2010年体験談 伊藤 優子(2010年度体験談)

2011/6
■経緯
 
2010年度より、バルカン・プログラムの研修先がクロアチアからマケドニアに変更となった。1995年にクロアチアの戦後復興に向けて建設された「日本難民センター」がひとつの役目を終え、両国の文化交流の場として新たな歩みをはじめたためである。このような状況のもと、NPO法人日本救援行動センター(以下、JARC)のアレンジメントにより、マケドニアで2週間の研修機会を得た。2月6日出国し、ウイーン経由で首都スコピエに到着し、ストゥルーガ、クマノボと研修先を移動しながら18日までマケドニアに滞在した。
 
■歴史・民族
 
マケドニアは、ユーゴスラビアから独立後も、コソボ紛争を経て、2002年マケドニア人政党「社会民主同盟」が政権を奪還し、アルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組むまでの長い紛争の歴史を持つ。マケドニアは表面的には紛争も終息し、EU加盟に向けて積極的に動きだしている。しかし、国内はマケドニア人・アルバニア人はじめ、ロマと呼ばれるジプシー・トルコ系・ギリシャ系・ロシア系などまさに民族のるつぼであり、滞在中も博物館の建設を巡ってマケドニア人・アルバニア人の暴動がマスコミを賑わせていた。複雑な歴史を持つ旧社会主義国マケドニアが、現在どのようなステージに立ち、今後どのように経済発展を成し遂げようとしているのか興味深いところである。
 
■民族融和政策
 
マケドニアで、民族問題に取り組んでいるJARCの活動を紹介する。事務局は、日本人2名とマケドニア人1名で運営されている。地域の小学生が行っている清掃や植林活動は、NPO法人日本紛争予防センター(以下、JCCP)がJARCにアウトソーシングしている事業である。活動が継続すると、その成果を植林面積・植林本数・参加人数に求めてしまう。しかし、本来の目的は「マケドニア人とアルバニア人がお互いを知り、仲良くなること」であり、植林はツールに過ぎないことも承知している。面積・本数・人数は可視化できても、本来の成果は見えにくいところにある。高校生くらいになると互いの嫌悪感を隠そうとせず、暴力に繋がることもあるので、小学生から両民族の交流を図ることが必要だと考えられている。はじめは、2グループに分かれて決して交わろうとしない子供たち。そこで、事務局は交互に学校を訪問して行う月1回のワークショップを開催し、歌ったり、折り紙をしたり・・・そんな取り組みを重ねた。また、ワークショップでは色違いのTシャツを2種類用意し、好きな色を着てもらう。色ごとのグループを作ると、両者が混在して作業をすることになる。そして、ワークショップの後にはアンケート調査を行う。最初は「大嫌いだった隣人」、それがワークショップを重ねる毎に「話しかけてみようかな」「友達になってもいいかな」・・・「結婚してもいいかな」と変化していく。まだまだ成果は見えないが、民族間の友好関係の構築にはじっくり時間をかけるほかないようだ。
 
■研究テーマ
 
公共政策では、男女共同参画社会実現に向けた政策に関心を持っている。女性差別撤廃条約の採択を契機に、男女の同権・平等が世界の共通ルールとなってきている。各国の男女共同参画社会の推進度をはかる指標の一つに経済分野・教育分野・政治分野及び保健分野のデータから作成されるGGI(ジェンダー・ギャップ指数)がある。UNDP(国連開発計画)によると、マケドニア53位、日本は98位/130国となっている。健康的な生活・人間らしい生活水準・高い教育水準を維持している日本が、マケドニアに遅れる要因は、政治分野及び経済分野における男女差が大きいことである。その是正策として、積極的な差別解除を目指すアファーマティブ・アクション(Affirmative action)が注目されている。一方、先を行くマケドニアではクオータ(quota)制により、国会議員の3割が女性となっている。確かに、研修先の学校・銀行・ホテルで調査に対応してくれたのは女性が大半で、女性の社会進出を肌で感じたところだった。制度が整えば、目指す男女共同参画社会に近づくのだろうか。マケドニアの制度導入の過程や成果について検証し、リサーチペーパーに反映させたいと考えている。
 
■教育システム
 
男女共同参画社会を目指す「小学校の教育プログラム」について、担当するソーシャルワーカーから説明を受ける機会を得た。プログラムには、明確なVisionとMissionが謳われ、行動計画も具体的に記載され、そのプロセスもPDCAサイクルに則った評価システムとして作り込まれていた。例えば、クラス毎の評価は個人の成績の積み重ね、年度毎に評価され、成績上位クラスは表彰され、旅行などの褒美がある。一方、下位のクラスには計画の見直しと新たなテーマが与えられる。生徒一人ひとりのモチベーションをあげることで、学内にも活気が溢れていた。しかし、このプログラムの導入経緯や運用の問題点を尋ねると、政府の方針とか戦略という回答を繰り返すだけであった。プログラムやその運用は興味深かったが、政府追従の教育現場の姿勢に疑問が残った。
 
■おわりに
 
マケドニア語とキリル文字の中で過ごした2週間は、多くの民族に出会えた有益な機会でした。このプログラムをアレンジして下さったJARCスコピエ事務所の皆様、活動拠点となったホームステイ先のホストの方々、また、本プログラムの選考にあたり、「語学力よりやる気」と言って背中を押して下さった北海道大学の鈴木一人先生と吉田徹先生に心より感謝申し上げたい。(2011.06.06)

2009年体験談 澤田  舞(2009年度体験談)

2010/2
クロアチア難民センター体験記

1995年にクロアチア紛争が終結し、今年で15年。クロアチアとセルビアの間の争いに巻き込まれ、家族、友人、家、あらゆるものを奪われ、故郷を追われた人々は、この15年間どのような人生を送ってきたのでしょうか?

私達は、クロアチアにある日本のODAで作られた難民センターを訪れ、そこで2週間難民の方々と共に生活してきました。そこで暮らしていた人々の多くは、かつてクロアチア独立の際に起きた、クロアチア人とセルビア人の民族的対立に巻き込まれ、セルビア人が優勢を誇る本国ボスニアから逃げざるをえなかったクロアチア人でした。

15年前に終結した紛争、綺麗な街並みの首都、クロアチアの紛争は終わったものだと考えていました。しかし、実際に難民センターに到着し、彼らの話を聞いていくうちに、自身の思い違いに気付かされたのです。

ある一人の難民の方のお話を少ししましょう。その人は紛争中にセルビア人兵士達の恐怖から逃げるために町まるごと移動を始めました。それからいくつもの難民センター等を転々とし、その中で父親を失い、7年前、私が訪れた難民センターにたどり着きました。そして現在、難民センターから立ち退きの要請があり、クロアチア政府から自身の家を受け取ることはできるのですが、それがどんなところに与えられるのか、病院や市場へのアクセスが悪いところなのでは、という不安の中に生活しています。その人にとって、紛争は終わったものでしょうか?軍事的な意味での紛争は確かに終わりました。しかし、それによって狂わされたその人の生活は、未だに安定とは言い難い状況です。

歴史の中の事件は過去のものとして描かれます。そしてそれはまるで小説の中の一文のように見え、現実味に欠けているように感じる。しかし、一つの歴史的な事実の中に、数え切れないほどの人達の、それぞれひとつひとつの人生が息づいているのだということを、忘れてはいけないと思います。歴史の事件は一時で終わっても、そこに巻き込まれた人々の人生はその後もずっと続いていくのです。本当の意味での事件の終結とは、そこに巻き込まれた人々の平穏が取り戻された時なのではないでしょうか?そう考えると世界には終わっていない出来事がたくさんあるのではないでしょうか?

当たり前のようで、見過ごしがちなこと。それに気付かせてくれたのが、この現場での体験でした。このような貴重な経験をさせていただく機会を与えて下さった、大学院関係者の方々、現地での我々の行動を導き、お世話して下さった皆様にこの場を借りて深くお礼申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

2008年体験談 石橋 義通(2008年度体験談)

2009/2
クロアチア難民センター体験記
 
クロアチア共和国にて
 
二月の中旬、この冬一番の豪雪に見舞われた札幌を後にした。
 
ウィーンを経由し凡そ丸一日を費やし、同行者の廣瀬佳美さんとクロアチア共和国の首都ザグレブの空港に降り立ったのは、夜の帳が下がった18時過ぎであった。
 
気温は零下5度、札幌に比べると積雪は少ないものの、頬を刺す乾燥した風にヨーロッパの内陸性気候の冬の厳しさを覚える。
 
日本を離れる直前に、札幌在住のクロアチア人女性にお会いした。開口一番、『クロアチア人を含め、ヨーロッパの人々は、いつも国境を意識しています。』と言われ、自然的国境(海岸線)により領土が確定している日本との違いを強く意識した。
 
クロアチア共和国は10世紀に王国として建国されて以来、オスマントルコ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国に管轄統治された歴史を有し、その間、民族の流入、対立、流失を繰り返しながら、国境線は幾度と無く大きく変更されている。現在の国境線は、第二次世界大戦後のヨシップ・ブロス・ティトー率いる旧ユーゴスラビア連邦共和国体制下で確定している。
 
空港よりエアポートバスでザグレブの中心部に入り、市民の日常の足である路面電車に乗り換えユースホステルへと向かった。その街並みは重厚かつ整然として美しく、多くの歴史的建造物に中世の面影を留め、1991年の独立宣言から’95年までの5年間、民族・宗教・イデオロギーの対立により多くの人命が失われた気配は、何処にも感じられない。
 
翌日より我々のテーマの一つである、旧ユーゴスラビア連邦共和国より自立国家への過程に於ける内戦、その後の難民の土地、家屋等の”残置財産への所有権の限界”について、クロアチア政府機関である難民支援センター、欧州安保協力機構(OSCE)、及び、在クロアチア日本大使館を訪れ、聞き取り調査を開始した。
 
難民所有の不動産物件の確定は、土地台帳そのものが19世紀末に作成されたものが基礎となっており、また、内戦時の家屋の損壊状態が極めて激しい為に、個々の所有権の認定が大変難しい状況が有る。それと同時に、社会主義国家体制を経て居るため、クロアチアの人々は不動産に対する個人所有の概念と所有への欲が、極めて希薄でもある。その一方で、多くの難民はクロアチア政府より住居の提供を受け、また、日本政府系ODA等の援助により難民キャンプ施設が提供され、住宅事情は充足しているが為に、不動産所有に於ける権利問題の衝突は少ないとの事である。
 
南部のボスニア・ヘルツェゴビナとの国境地帯を訪れると、内戦終結後14年を経過したのにも拘らず、其処彼処に未だに熾烈な戦火の爪痕が深く残り、対人地雷の危険区域を示す看板が立ち並ぶのを見るに付け、心が痛む。また、北西部のスロベニア共和国との海岸線に於ける国境では、未だに領土・領海の問題が燻っている。
 
世界の火薬庫と称されたバルカン半島、かつて砲弾が飛び交い硝煙の紫雲が立ち込め、悲しみに覆われた旧ユーゴスラビア地域の恒久平和を、心から願うばかりである。
 
国境とは・・・、国土とは・・・、平和とは・・・、命とは・・・、
想念が重く渦を巻く・・・。

2008年体験談 廣瀬 佳美(2008年度体験談)

2009/2
クロアチアの紛争の傷跡を訪ねて
 
昨日までの親しい隣人が、今日は敵になり斧を振りかざし、銃を構えて、襲いかかってくる、その様な世界を自分の身の上に想像することができるでしょうか。1991年、旧ユーゴスラヴィアからの独立をきっかけに激化した複雑な民族、宗教の対立による紛争の結果、クロアチアに残ったものは何だったのでしょうか。
 
今回の調査では、大使館や関係者の方からお話を伺うと共に、首都ザグレブから車で1時間半程の村にある日本のODAによって作られた難民センター、そして戦火の激しかったボスニア・ヘルツェゴビナとの国境付近を訪れました。
 
無残にも破壊された家々、銃弾の跡が一面に広がる壁、地雷マーク、朽ちた戦車…そこには、活気が溢れ多くの若者が行き交う首都ザグレブとは正反対の人気のない村が点在し、紛争後14年が経った今でも、その重く沈んだ風景を見ただけで、どれだけ残虐な殺し合いが行われたのかを理解できます。この紛争で2万人近くが亡くなったと言われますが、残虐な殺し合いが行われる中で精神的な傷を負い、心に深く刻まれたトラウマを抱え、彩りのない人生を送るしかない人々が現在も多数存在します。首都ザグレブやアドリア海沿いの美しい観光地を訪れると、まるで紛争などなかったかのような錯覚をしてしまいます。しかし14年前、クロアチア軍による嵐作戦で「一応解決」したこの紛争は、今でも多くの人々の中では進行形の苦しみなのです。
 
知識はただ知っているだけではなく、実践的でなければ意味がない。私はこの経験から、自分自身の生活を振り返ってみました。平和な日本で暮らす中で、衝撃的なニュースが日々世界から飛び込んできます。私たちは、そのニュースをどれだけ実感を持って受け止めることができているでしょうか。新聞の紙面に毎日のように掲載される「○○でテロにより20人死亡」や「サイクロンにより10万人被害」といった数字からはリアリティが感じられません。その一人ひとりの背景に、それぞれの人生があることを、私達は時々忘れてしまっているように感じます。事件から月日が経ち、全く報道されなくなっても、現場では苦しみが続いているという事実を忘れずに、何か自分に出来る本当に小さなことから、実践していくことが大切なのだと感じました。

2007年体験談 桑野 哲司(2007年度体験談)

2009/2
バルカンプログラムを終えて
 
本プログラムの趣旨はクロアチアの難民センターで生活をし、難民の実態調査をすることです。難民の現場を見ることを通して多くのことを学ばせて頂きました。その中でも、海外の、しかも難民センターという場で勉強になったことが2つあります。1つ目が、「国際人」として一番必要な素質は何かということです。その素質とは「物事を様々な立場からバランスよく見ることができること」ではないでしょうか。2つ目に、「人間」として最も必要なものが、「人の気持ちがわかる、あるいは理解しようとする優しさ」ではないかと感じました。
 
私は生まれて初めてヨーロッパに行きました。その中でも驚いたのは、クロアチア人の就労観です。「仕事はlazyに。余暇をいかにenjoyするか。それがクロアチア人の気質だと思うわ。」ザグレブ大学に通っている学生が言っていました。そういう考え方もあるのだと素直に感心しました。「国際人」として、異なった考え方と触れ合い、他者の考え方との比較の中で、自分自身の考え方を知らなければならないと思います。そのザグレブ大学の学生(計4名)に通訳を頼んで難民にインタビューしました。20名程インタビューした中で、ある老紳士が言ったことが最も印象に残りました。「セルビアは確かに私を迫害した。だが同じように我々クロアチア人もセルビア人を殺した。自分の家族を殺した人間に対して憎しみはあるが、セルビア人全員を憎んでいる訳じゃない。君たち若い人たちには勉強してほしい。勉強とは、Selfishな考え方ではなく物事を様々な立場からバランス良くみることができるようなることだ。」彼が言ったことは、「国際人」として我々に求められているものではないかと感じました。当たり前のようなことですが、頭では分かっていてもなかなかできることではありません。常に自分自身に問いかけて勉強し続けることが必要なのだと切に感じました。
 
インタビュー経験も含めて、海外での経験が初めての私にとって多くのことが刺激的でした。難民センターでは、多くの子ども達がいて、毎日元気にセンター内を走り回っています。私は毎晩彼らと一緒になって遊びまわりました。そんな折、ある事件が起こりました。私と一緒にHOPSから来た福原さんの持ち物をある少年が壊してしまったのです。彼は、それに対して悪びれる様子も無く謝ろうとしませんでした。その子の態度はまだ14歳の子どもといえども、好ましいものではないと思います。日本人であろうが、クロアチア人であろうが、人の大事にしていたものを壊してしまったら、それに対して素直に謝るべきではないでしょうか。人間関係を作る上で、相手の立場になって考えて行動することは、重要な徳目であると私は切に感じました。私は外に連れ出して彼に言いました。「もし自分が同じことされてみろよ。どう思う?相手の気持ちを考えてみろって。福原さんは壊したことを怒ってるんじゃない。彼女のモノを壊しておいて謝ろうとしないお前の態度に怒っているんだ。」結局、私と福原さんの考えを理解してくれたようで、素直に謝ってくれました。「人の気持ちが分かる」ことは、その人の器であると思います。それは「他者の考え方を理解する」ことにもつながり、最初に述べた「物事を様々な立場からバランスよく見ることができる」ようになるのではないでしょうか。
 
今回、このような学びの機会を与えていただき心から感謝申し上げます。特に、今回のプログラムの企画者であるHOPS吉田徹先生、お忙しい中、我々に合わせて頂いたUNHCR松元洋様、クロアチア滞在中に美味しい日本料理をご馳走してくれたスティグリッツ・万寿美様には、本当にお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。その他にも、非常に多くの方に支えられてのプログラムでした。今回の学びを自らの将来に活かすことはもちろん、これからHOPSに入学してくる後輩達にも伝えていきたいです。

2007年体験談 福原 昌代(2007年度体験談)

2009/2
 
難民センター(クロアチア)への旅
 
1990年代は、バルカン地域では、ユーゴスラビア分裂の10年間、若しくは、各民族が自分の国を建設する為に闘った10年でした。日本から遠く離れた東ヨーロッパで、残虐な殺し合いが行われていたことを、記憶に留められている方も多いのではないでしょうか。自らの民族としての誇り、宗教を賭けて戦うことは、私の想像が全く及ばないことでした。歴史的事実という文脈では理解できても、その悲しみを実感として受けとめられませんでした。
 
2月の終わりの2週間の難民センターでの滞在により、それまでの私のユーゴ紛争に関する認識の甘さは180度、転換させられました。今までは、国際政治の中での一つの事件として「ただ知っていただけ」でした。それが、難民センターに行き、住民の方からお話を伺ったことで、あの紛争が個々人の及ぼした影響の大きさを、まるで自分が負った傷のように感じました。(そう簡単に共感できると言うことは、勿論危険なことですが。)テレビの中で伝えられたあの紛争に否応なく巻き込まれた人々が現実に存在し、それが与えた影響が深く刻まれていることを知り、ユーゴ紛争を自分に接点のある事件として、関わりのある事件だと考えるようになりました。
 
私たちが滞在した、日本のODAで立てられた難民センターは街から離れたところにある、小さな村です。そこに、全体で約200人の老人や仕事が見つけられない人々が暮らしていました。ザグレブ大学の学生の協力も得て、その十数人の方にヒアリングをしました。道を歩いている方々を呼び止めては、お話を伺わせてもらいました。住民の方々から聞くのは、自分たちの街を追われた、何十体もの死体を見てきたなど、悲しくなるような話ばかりでした。ある人は、「今、自分の村に戻って、自分の家族を殺した人物を見つけたら復讐するだろう。そして、その結果自分が死ぬことも厭わない。」と語りました。紛争後、約10年を経ても尚、そこに確実に存在するのは、憎しみと癒えない深い傷です。彼が負わざるをえなかった憎しみは時間をかけ、更に醸成され、彼自身の生活やその人自身を蝕んでいるように思えました。
 
そういった状況を見て、私に何が出来るのかということを深く考えさせられました。私が見つけた答えは、「何も出来ない」でした。経験したことを文章に書き、紛争のない平和な世の中の重要性について、少しは何か語れるかもしれません。けれども、彼らが持つ悲しみや憎しみを消すことは出来ません。自分は何も出来ない、無力な人間であることを実感しました。国際開発や国際協力の分野を始め、日本国内のボランティア活動でも、自分が無力であることを前提にし、何か小さなことでもいいから、自分の出来ることを見つけ、見返りを求めず、謙虚にそれを行い続けることが重要なのだと考えています。
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