コラム
column

歴史へGO!!

松浦 正孝 公共政策大学院教授 松浦 正孝

 何気なくテレビをつけたら、『バブルへGO!!タイムマシンはドラム式』(ホイチョイ・プロダクションズ、2007年2月公開)という映画が始まっていた。2007年からバブル崩壊の契機となった1990年へ、ドラム式洗濯機を改良したタイムマシンでトリップし、バブル崩壊がもたらした日本経済の破綻をリセットしようという、クレヨンしんちゃんも真っ青のストーリーである。清純派で売り出したもののみるみるうちに崩れた広末涼子おねいさんも、疲れたかつての「角川三人娘」薬師丸ひろ子おねいさんも痛々しかったが、それはそれで味となって、何とはなしにおしまいまで見てしまった。また今日もお勉強できなかった・・・(よい子はマネしないように)。

 それはそれとして、『私をスキーに連れてって』(1987年公開)と同じホイチョイの馬場康夫監督の作品というところに、甘酸っぱい懐かしさと自虐的な哀愁を感じた(ちなみに、三上博史は今も舞台などで活躍している)。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の原著が出たのが1979年、不肖私が大学に入学したのが1981年だったから、私たちの世代は学生運動の残り香すら嗅げなかった(折角ロシア語クラスに入ったというのに)。教養学部の門を入ると、ミンセーの人が一人ハンドマイクで声を張り上げて呼びかけをしているだけで学生たちは足も止めず、「佐藤・衛藤・公文の3反動教授打倒!!」(彼らは、大平内閣・中曽根内閣のブレーンだった。おまけに、後から、公文氏は、リクルート事件に際して未公開株をちゃっかり貰っていたことが発覚した。)という立て看がポツンと立っていた。庄司薫の小説で読んだような、ヘルメット姿に覆面の「怪傑黒頭巾」風のおにいさん達は、とっくにいなかった。その代わり、私たち(金子勝慶大教授命名するところの「大陥没世代」)は、バブルだけはどっぷり体験した。時は、ディスコ・ブーム、ボートハウスの店に並び、闊歩するボディコンのおねいさんたちを眺めた。ユーミンとサザンと松田聖子のカセットテープ(!)が、仲間とスキーへ行くクルマ(セリカではなかったけれど)の必需品だった。あげくの果てには、パウダー・スノーを求めて北海道にまで何度も飛んできた(その後罰があたって腰痛持ちとなり、北海道に移住したというのにスキーはできなくなった)。その一方で、沖縄のリゾートやライブハウスにも足を運ぶようになった。夜はもちろん、史料館へ行っても、昼から恵比寿の鮨屋でビールを飲んでいた(その後、罰があたってビールまで飲めなくなった)。お金は、アルバイトで何とかなった。後輩達に追い越され、博士論文を書くのにずいぶん時間がかかった。何してるんだか・・・(よい子はマネしないように)。今の北大生には全く想像もできない話らしい。恥ずかしいこともたくさんあったけれど、それでも何とかなる時代だった(折角だから、もっと遊んでおけば良かった!?)。それが私たちのバブル(経済膨張)の時代だった。

 それから20年後へGO!!
2007年度後期学部ゼミの最後に、村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』(中央公論社、1979年)を読んだ。大学に入った時、仲間達と一緒に読んだが、とても難しかった。今でも、このもったいぶった文章は何とかならないかと思う。しかし、西欧式の単線的発展論に反発して、複合分野による自前の学問を打ち立てようとする熱意は、今でも伝わってくる。その後30年間の日本史などにおける蓄積は、さすがに、この本の中身を色褪せたものにしている。今回改めて何よりも強く感じたのは、これが、西欧式と対抗する日本式によるギラギラの近代化論だということだ。猿真似でない独自の日本型システム研究の試みから学び直そうという私の気持ちは、時代背景をあまりに強く反映した主張の前に、少し萎えてしまった。学生たちも、経済成長礼賛のにおいに、戸惑いを隠さなかった。何よりも、この本では、バブル崩壊後の日本経済の凋落やアメリカの衰退と、それに代わる中国・インドなどの台頭が全く予測されていないし、環境問題や少子高齢化社会の深刻化の速度は、想像を絶するものだったようだ(それにしても、地球はあと何年保つのだろう)。

 しかし、最終の第14章でなされている未来予想のシナリオは、おもしろかった。日本の社会システムが、将来(つまりは現在)どうなるか。イエ制度の根幹である家族については、結びつきが強化され、個人化はしないと予想されていてハズレ。どさくさに紛れて、小さな字で、今後各イエには3人以上の子供が必要、などと書いてある。企業については、メンバーに対する包摂・配慮が拡大すると予想され、凝集性が低下するとしても欧米よりは帰属集団的性格が強く残るだろうとされている。日本企業による社員の外部化、切り捨ては思いもよらなかったらしい。国際関係については、日米協調路線と「アジア主義」とが可能性として予測されていて、これは現在の動向に当てはまっているように見えるが、後者は自給経済化を伴うと書かれているので、アジアとりわけ中国への経済依存については全く見えていない。産業化を抑制することになる地球環境の危機については、だいぶ先のことになるだろうと考えられている。いずれも、日本を含む産業発展と経済成長が当分継続すると考え、その凋落や中国など「後進国」の発展が見通されていない欠陥は否定できないし、「核家族」化するにせよイエ型社会という日本の本質は変わらない、という大前提も思いこみが強すぎる。PCやケータイなどによる個人のアトム化や、少子化、非婚化、格差社会の現状を、ご存命の公文氏などはどう見るのだろうか。(しかし、前述のような学生時代を送って難しいことは何も考えなかった私に、彼らを批判する資格はない。)

 但し、政治システムの予想については、二大政党の政権交代路線と「大連立」路線との併存により、「弱い民主主義」への後退が起こって、他国依存型国家へと転落する可能性を強く示唆しており、この点は、正に現在の状況を正確に言い当てているように見える。「イエ」を日本社会の本質と見て分析する視角は、政治システムについては的確であったと言えそうだ。もっとも、理論的には、この「ウジ」型、「イエ」型、「ムラ」型の3つの類型相互の関係、とりわけ後二者の関係について、もっと説明して欲しいという感を、私はこの本を読む間、ずっと持ち続けた。「ムラ」の記述が少なすぎるのではないだろうか。規制緩和、新自由主義、町村合併などによる地方社会・共同体の解体の結果、失われた「ムラ」への郷愁が強まっている現在、宮崎学『現代ヤクザ肯定論』(筑摩書房、2007年)のように、「アジール」にもなりうる伝統的な「組」的・「ムラ」的絆を基盤に日本近代を見る視角の方が、より説得力を持つように思われる。宮崎氏の、下層社会・周縁社会を、かつての社会学・民俗学の成果に依拠しながら事実に即して分析する手法には、強い共感と感動を覚える。日本経済新聞に現在連載中の北方謙三「望郷の道」も、九州遠賀川出身の博徒が台湾で事業を興す物語だ。財界生成の歴史については、かつて私も、「ムラ」モデルを使って分析したことがある(『財界の政治経済史』東京大学出版会、2002年)。日本政党史、労働運動史も、国際関係史も、今後、大きく書き換えられていくだろう。

 歴史は、これから、ますます面白くなっていく。

(まつうら・まさたか 北海道大学公共政策大学院教授)